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  • 和楽庵

西陣織

西陣

西陣を見たい
西陣を知りたい
最近、西陣を訪れる人が多い
京都が生み、育てあげた西陣
そこから誕生する西陣織は
優美で
絢爛で
衣や住の生活に潤いを与えてくれる
日本の産業は近代化をなしとげた
たが、
伝統産業西陣は
近代化をとげながらも
人が
人の手が
生み出してゆく伝統産業の
心の真髄を忘れない
ここに今日の西陣が
生き生きと
成長している秘密がある

西陣織●その美の背景 絹織千年 駒敏郎(作家)

西陣の中心部の道路は、100年くらい前とほとんど変わっていない。それなりに整備はされているが、道幅などは江戸時代そのままだといってよい。
 その西陣の狭い道が、休日になるとふしぎに広く感じられる。車もあまり通らないし、両側の家々も機の音を停めてひっそりとしている。いかにも町全体が休息をしているといったようすで、ちょっと途惑いを覚えるほどに静かである。そんな日に町を歩いていると、ふだんの西陣がいかに活気に溢れているかということを、今さらのように考えさせられるのである。
 方三キロを超える広い地域に、織物に関連したあらゆる業種の人たちが、密集して生活している、そんな珍しい町は、西陣だけだろうと思う。
 むかしから生糸の原産地ではなかった京都に、西陣のような大機業地が育ったのは奇妙といえば奇妙なのだが、それなりの理由はある。政治都市として平安京が建設された時、政権を握る貴族たちは、織物技術者たちを身辺に住まわせる必要があった。つまり官営の機業が営まれたわけである。
 西陣という呼称の歴史は500年余だが、その以前に官営の機業として、さらに600年余の伝統があった。西陣が他の機業地とちがうのは、この点である。西陣はそもそもから、優秀な織物を織り出すように使命づけられていたのだった。原料も最良なら技術も最高、意匠も最美、その官機の伝統が、西陣には脈々として受け継がれてきたのである。
 中世にはいると、京都は戦乱に荒廃した。官の保護を失った織手たちは四散したが、平和がよみがえると元の場所に帰って、自分たちの町を復興した。住み慣れた土地への愛着もさることながら、盆地の西北隅を占めるこの一帯が美しい水に恵まれ、四季を通じて空気が適度の潤いを含んでいたからだろう。
 権力の座は交替をくりかえしたが、権力を握った者が欲しがる高級織物は、西陣でしか織れなかった。江戸時代の中頃まで、西陣は実に、日本でただ一ヶ所の機業地だった。分業化し専門化した織物技術者の集団は「何であれ西陣で織れぬ織物はない」と言い切るほどの自信を持ち、事実言葉通りのものを織り上げてみせたのだった。
 江戸時代の後期になると、西陣の技術を採り入れて各地に機業が興り、西陣は市場をおびやかされて苦境に立つようになる。享保と天明、二度の大火に見舞われ、追い討ちをかけるように、天保の改革による奢侈禁止令が出る。高級織物が中心だった西陣は、きびしい禁絹令で大打撃を受けて、一時は機台数が10分の一に減ってしまったといわれる。
 だが、こうした数々の災厄をはねかえして、西陣はいつも立ち直っている。伝統とは、飾り物ではない。伝統の真の力は、そうした非常の時にはじめてあらわれるものであって、明治維新で混乱し沈滞した西陣が、いち早く西欧の新技術を採り入れて近代化の第一歩を歩み出すことができたのも、その力のおかげだったのである。西陣にはくすんだ色合いのべんがら格子を残す家々が多いが、かって着物を引き立てたその古風な家なみに、近頃は近代的なビルが目立つようになって来た。だが西陣の狭い道には、1000年という長い時間、ひたすら美しいものを織りつづけてきたおびただしい人たちの息づかいが、今なお流れているのを感じるのである。